既製品と古典について

また、書いていなかった。これはまだまだ何か意味あることを書こうとしているか、頭がスポンジ状になっていたのだろ。

そういえば、七日まで新潟に帰省していた。雪のない正月なんて滅多にないのでちょっと拍子抜けだったけど、二つ温泉に入り、いとこの赤ん坊をはじめて見た。すごいと思った。

両腕にだっこしてみると、足を見てみると、手に触れてみると、ほっぺたを突っついてみると、すごい。いちいちたまげた。すごくかわいげ。

それから目の、黒目の焦点が僕を見ていない。ぼんやりと存在には気づいているようだけど、何か視線が僕を通り過ぎていっているような気がする。曖昧な表情になってしまう。

帰省すると僕は方言になる。普段も打ち解けるとなれなれしくも方言が口をついていくけれど、もっとひどい。緩急が変わって、センテンスが短くなって、論理的に話すことができなくなる。

そのかわり、というか、すごく限定された状況特有の、セッションのような仕方で言葉をぶつけ合っているような感覚に陥る。かなり荒いし、話が垂直方向に立ち上がることはほとんどないが、それが言葉のけっこう大事な側面であることは身にしみて分かる。

ただ、ここにずっといると、そういう言葉以外喋れなくなってくる。言いたいことに吸い寄せられてくることばの目が粗く、いらいらしながらそのことに気がつく。ある限定された語り方の中に安住していることは、その語り方が非常に限定的なものであることを忘れさせ、それ以外を話せないように馴致させていくのだ。

たとえば、僕の祖母の一人称は「わっち」だ。安野モヨコの『さくらん』を地でいっている(アニメのヤツは全然アクセントが違うけど)。祖母は「鈴木さま」とか呼ばれていた、商人のお嬢だから、農家の友達のおばさんたちのように「おれ」とは言わないし、そういう人たちの言葉をきれいと思っていない。だけれど、祖母はその言葉づかいがすごく限定的(蒲原平野の、商人の、娘の)なものであることを認識していない。僕が指摘すれば「そらかもしんねけどわっちじゃわかんねて」と言う。

僕がいちいちそんなことを認識するのは、錯綜した言語状況のなかに身を置くことが良い文学作品が生まれる基礎条件である、ということを信じるからだ。ダンテの「神曲」がイタリア語を作ったように、夏目漱石の小説が今使われている日本語の文章を作ったように、言語的なemergency(危機)からことばがemergence(創発)している。

と、ここまで、僕は声と文字というか、パロールエクリチュールというか、話ことばと書きことば、というか、そういう区別をしないで書いた。それらは「と」の間で重複しているし、「というか、」間でも重複したり余ったりしている。既製品にしかすぎない言葉のうちで、僕が気になってしまった理由は僕にしかわからない。そこで、一番しっくりくるもの選んだという事実だけがここに現れている。

ここでタイトルに立ち戻ろう。古典を考える上で、もっとも重要になることがマルセル・デュシャンの「レディーメイド」である、といったら意外に思うのではないか。コンセプチャル・アートは普通、既製品にサインして「これが作品だ」と納得させちゃうことがすごいところだったと思われている。そうではなくて、デュシャンにとっての譲れない唯一のものを、既製品の中から探し出してきたところがすごいのだ、と茂木健一郎さんは言っていた。だって普通僕たちは、既製品以外から何かを作ることってほとんどできない。恋人は理想像をこねて作り上げたものではないし、何よりもまず今まで語ってきた僕の言葉が既製品ではないか。

茂木さんはここから、骨董であるとか、和歌における「本歌取り」だとか(そういえば「パロディ」もそうだね)、芸術における既製品を再着想することの大切さを強調していた。僕はこの既製品の最たるものを古典と考えることにした。その古典についての認識をこの本から。

東京ファイティングキッズ・リターン

東京ファイティングキッズ・リターン

白川静の『孔子伝』を引用したくだり。

創造という意識がはたらくとき、そこにはかえって真の創造がないという、逆説的な見方もありうる。たとえば伝統が、形式としてあたえられるとき、それはすでに伝統ではないのと同様である。伝統は追体験によって個に内在するものとなるとき、はじめて伝統となる。そしてそれは、個のはたらきによって人格化され、具体化され、『述べ』られる。述べられるものはすでに創造なのである。しかし自らを創作者としなかった孔子は、すべてこれらを周公に帰した。周公は孔子自身によって作られた、その理想像である。(P47-48)

周公というのは、紀元前11世紀ころに治績を発揮した功臣で、孔子の理想とした人のことらしい。孔子論語のなかで述べている、『述べる』ことの創造性とは、暗唱されてきた周公のフォークロアという古典のなかから創発したのだ。

子曰く。述べて作らず、信じて古を好む。(『論語』述而篇)