手向くるや、むしりたがりし赤い花

千夜千冊


前々回ぼくは、複雑系というキーワードを使って資本主義と心の力学系が相同関係にあることを見ようとした。相同関係は因果関係とは違い、「だから」とか「それゆえ」を使わないで、単にそれを“並べること”である。似た構造を発見することは、そこに終始できずに接続詞を吸引してくるけれど、“並べる”にとどまっておく。

ただし、“並べること”は編集であるから、それが批評として機能したりする。たとえば、本棚の配架はぜったいに批評だ。「古今和歌集」における真名序と仮名序の並列、「新撰万葉集」や「和漢朗詠集」では和歌と漢詩が二項同体で並べたということ、それは“並べること(→あわせ)”が批評として働いたということで、それゆえ仮名文体が受け入れられていく、ということなのではないか。そういうことを考えると、この“並べること”ってすごい。


“並べること”に終始した方が効果的なことがあるのは、関係性をどうしても見出したくなる人間にペンディングという知性を要求するせいだろう。原因→結果の単純な関係を思考することは、入力と出力が一対一対応するというリニアな関係を想定しすぎたという形の失敗だったけど、ここへとどまることは言うほど簡単ではない。

この前の水曜日に文カフェで話していて、グローバリゼーションは「いろんな価値観があっていいじゃん」という考え方が生んだんだ、という話を聞いた。「いろんな価値観があっていい」というのは、一瞬ペンディングを要求する思考法のような気がする。でも違う。「いろんな価値観があっていいじゃん」がすでにして価値観となってしまっている。「じゃん」のところ、よく見て。

「〜じゃん」と言う時、言っている人は実はだれに対してもそれを言っていない。二の句を開いてお話をしていない。もう済んだ、分かりきった価値観として、それをイデオロギーにすることにいそしんでいるだけだ。ペンディングを要求する、というのはそこからもっとも遠い、分からないから考え続ける、「いろんな価値観があっていいじゃん」を使わずに自分と違う考え方をする人とお話をすることのはず。「〜じゃん」が有効なのは、「〜」が認められていないところで肩に力が入っている人にやさしく言うときだけだ。


“並べること”は“並べられたもの”同士にセッションがなくてはいけない。「並べられたものが異なる」ことのうちにセッションがおきる必要があることは、これまでのぼくのエントリでいえば、“自己”という他者とのセッションのことでもある。たとえば『千夜千冊』で、松岡正剛ラカンについて次のように言っている。

そもそも自己としての誰かは、いつも自分で自分のことを語っているつもりになっている。しかしながら、自分のことを語ろうとすればするほど、そのランガージュはいつまにか他者を語っている。なぜなら自己というものは、もともと他者との比較においてしか芽生えない。
 一方、他者は他者で勝手なことを語っている。けれどもその「他者の語らい」は、ラカンによれば、自分のことを語っているらしいという他動的なランガージュの印象になる。これをいいかえれば、そこには「語られている他者としての自己」にこそ無意識があるということになる。さあ、そうするとどうなるか。
 自己と他者の“切り分け”の具合にのみランガージュとしての無意識があるということになる。これが「人間は、ランガージュの構造が身体を切り分けることによって思考しているのです」という意味になる。


僕が「〜じゃん」の効果に注目して、お話をすることを重要視したのは実はここにも理由がある。「語られる他者」を経由して、それが自己である、と臓腑に染み込んでいくためには、“ランガージュ”という機能は無視することはできないのだ。

【無意識? 語る存在(エトール・パルラン)にしか無意識はありません】
テレヴィジオン』ジャック・ラカンより


だから、僕は「あなたは喋り始めてくれますか?」と語りかけることになった。詩をうたうように、そして歌を詠むように、ペンディングしたあとに無限に広がるランガージュを求めて。