長い本の感想ってどう書けばいいの

総じて面白いけれど、とりわけ北田×鈴木×東の第二章「リベラリズム動物化のあいだで」が面白かった。たぶんそれは若い人たちの方がおっちょこちょいなことを言うからだと思う。この本は東浩紀が個人で発行しているメールマガジンをもとにしているので、宮台を含む鼎談第一章「脱政治化から再政治化へ」は2003年の12月に行われているのだが、−天皇亜細亜主義を持ち出す−宮台の転向に対するいち早い疑義とそれに対する応答が見られるのも興味深かった。以下はメモ。


ルーマンの社会システム理論における複雑性の縮減を果たす四つのメディア。学的システムにおける「真理」、恋愛システムにおける「愛」、政治システムにおける「権力」、経済システムにおける「貨幣」。

ネオリベラリズムは、1980年代から前面化する「小さな政府」「市場の自由拡大」を掲げる政策的立場のこと。具体的な政治家は、レーガンサッチャー中曽根康弘などの名前が挙がる。これと同一視されがちなネオコン(=ネオコンサーヴァティブ)は、9・11以降のブッシュ政権に見る強鞭な外交政策を取る立場を指すことが多い。リバタリアニズム(=自由至上主義)は、従来は古典的なリベラリズムの端緒として語られることが多かったが、現代の最小国家理論(ノージック)や無政府資本主義(D・フリードマン)に繋がるものとして知られる。身体の私的所有を根拠に、平等よりも個人の自由を最大限に重要視すべきとし、国防やセキュリティ以外のすべては市場にゆだねるべきであるとする立場。これに対し、財の再配分には国家が介入すべきであると、「公正としての正義」を掲げるジョン・ロールズらのリベラリズムは主張する。


デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

デリダの遺言―「生き生き」とした思想を語る死者へ

日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界仲正昌樹を知る。この人は元統一教会信者という特異な出自を持ち、比較的最近知られるようになった現代思想家であるらしく、ぼんやりと「日常性」「超越性」「宗教」といったことに関心をもっていた僕に、鋭くクリティカルなことをいくつか言っている。この人の「日常性」とか「生き生きとしたもの」とかいった言説に対する懐疑には、すさまじいものがあるようだ。何よりそれを物語るに、この著書の目次に「生」という文字を数えたら、51個にもなった。そして副題が「『生き生き』とした思想を語る死者へ」だ。

いささか適当なことを言ってお茶を濁そう。僕が宮台真司の本を最初に読み始めるときに一番躊躇したのは、彼のギャグセンスのなさ−言い換えれば−「ダサさ」に対してだった。「(笑)」的なコミニュケーションの苦手な僕は、そういう−「諧謔/韜晦」などというジャーゴンで立ち位置を自己言及しまくる−彼が痛々しく見えた。というか、今でもそう思う。しかし、仲正昌樹という著者の言葉にはまったくそれがない。どこか保坂和志をさらに悪人にしたような彼の嗤った表情には、気持ちいいくらいのニヒリストぶりがおかしいのである。だからこの本を読んでいて、あまり身体が重くなる感じがしない。つらいことを言われているのに、身につまされるというところがない。書物はそもそも死んだもの(=エクリチュール)なのだから、読んでいて読者の身体まで殺そうとしないものが健康にいいと僕は感じた。